小城羊羹初祖 村岡総本舗 羊羹資料館 小城羊羹の歴史

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小城羊羹の

 小京都として知られる小城は、桜の名所でもあり、平成二年には「桜の名所百選」にも選ばれました。
小城の羊羹はこの桜にちなんだ「櫻羊羹」から始まったとの説があります。

■村岡安吉
■昭和30年代初めて小城羊羹と記したとされる運搬箱

この「櫻羊羹」の創業は森永惣吉という人で一説には大阪の虎屋という名代の菓子店から製法を習ったと伝えられています。「櫻羊羹」は赤小豆に紅色をおとしたものではなく、白小豆や大福豆など白いんげんに天然の紅を加えた羊羹で、その風合いは上品な生菓子の美しさをもった逸品でありました。
  一方、村岡総本舗の羊羹は創業時の明治三十二年二月に羊羹作りの道具一式と製法を持ち込んだ陣内啄一によって長崎から伝えられたとされています。
 明治から大正にかけて小城の羊羹作りは大盛況であり、競争も激しいものでした。また、小城以外の地域でも「煉羊羹」が作られ、商標争いがおこりました。その判決文中、小城羊羹に関する興味あることが記されています。
前略…小城産羊羹ハ明治四年初メテ製出セラレ其後年ト共ニ製造業者ヲ増シ近年益々其隆盛ヲ極ムルニ至リ其製品ハ九州一圓ハ勿論東ハ岡山姫路北ハ朝鮮南ハ臺湾ノ市場ニ於テ盛ニ取引セラルルニ至ル…
中略…明治二十七八年頃ヨリ製造家ノ大多数カ自己製品ノ大部分ニ小城羊羹ノ標章ヲ使用シ以テ今日ニ及ヘリ…後略

■森永家で使用していた包装紙を使った貼り箱

「櫻羊羹」に対して、「小城羊羹」の名称をはじめてレッテルに取り入れたのが先々代の社長である村岡安吉でした。
これは安吉が行商の際、行く先々で煉羊羹のことが「小城の羊羹」と呼ばれていたからだといわれています。
 この「小城羊羹」の商標は、地名が入っているため村岡総本舗だけのものではなく、「小城羊羹協同組合」によって登録され、三十余の店がそれぞれの「小城羊羹」を販売しています。

 

羊のスープ、ヒントに

茶席でも親しまれる小城(おぎ)羊羹

 「あの肌合いが滑らかに、緻密(ちみつ)に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ」。夏目漱石の心をとらえた羊羹(ようかん)について記した『草枕』の一節。百年前は高級菓子だったが戦後は庶民の間に浸透し、今も根強い人気を誇る。文字通り中国料理「羊の羹(あつもの、スープの意)」をルーツとし、江戸で完成されたと考えられてきたが、早い時期に肥前にも定着、進化したとの見方もある。
 羊羹は、戦時中の日本では軍の携行食としても普及し、現在では来客をもてなしたり土産として親しまれる。中国では駄菓子として安く販売され、韓国ではコンビニにも並ぶほどだ。

 

北京名物の羊肉料理

中国で売られている羊羹(上、右)。韓国のものはコンビニでも売られている(中、下)

 中国では、日本のおくんちに当たる九月九日に「重陽(ちょうようこう)」という餅(もち)を食べる。これは「年(ネンカオ)」という餅の一種で、年は日本の「外郎(ういろう)」と同じものだ。外郎に小豆を入れたものが蒸し羊羹となり、のちに煉(ね)り羊羹に進化したと、全国銘産菓子工業協同組合副理事長の村岡安廣さんは考える。
 一説によると、羊羹のルーツは中国・北京名物の「羊肉(ヤンロウ)料理」。かつては羊肉と野菜などを入れたごった煮のスープだったが、現在ではしゃぶしゃぶのようにして食べる鍋料理に。羊羹は、羊肉の色合いをまねたり、その煮こごりを参考にしたともいわれる。
 「菓子話船橋」(一八四一年)などによると、煉り羊羹は一七〇〇年代後半から一八〇〇年代初頭にかけて江戸でつくられた。それ以前、京都に起源があるという記録も残る。だが村岡さんは「現在のような形の羊羹が、いち早く定着したのは肥前だったのでは」と見る。一七八四年に豊前(大分県)の田中信平(通称・田信)が長崎で見聞して書いた「卓子式」という料理書に注目するからだ。

 

磨き上げた“美術品”

「卓子式」(複製本・臨川書店刊)には寒天を使用した「豆砂」の製法が記されている

 同書に記述されている「豆砂(とうさこう)」という料理は、小豆や砂糖とともに寒天を火で煉り、固める方法がとられた。現在の小城羊羹の製法とほぼ同じ。寒天を入れるのは、固形化することと併せて、日持ちを良くするためでもあった。
 総務省がまとめた都道府県別家計調査(平成十四年)の品目別支出金額によると、羊羹の年間購入額(一世帯当たり)は、佐賀県が二千百七十四円でトップ。約五百円差で二位以下を大きく引き離しており、家庭で羊羹がいかに好まれているかが分かる。村岡総本舗の永野光教小城工場長は「消費者の嗜好(しこう)は常に高まっている。つくり手も絶えず進歩していかなければ」と話す。
 小城では約三十軒もの羊羹店が並び、個性を競っている。先人が磨き上げた“美術品”の羊羹。より上質な味わいを求める一方、幅広い年代の多様なニーズにも応え、すそ野を広げている。

 

繧キ繝・繧ャ繝シ繝ュ繝シ繝?

村 岡 安 廣

 羊羹消費日本一の佐賀は、中国江南地方を源流とする禅の文化圏であり、唐津焼起源の江南地方説が紹介されたように、中国とのかかわりの深い佐賀の風土が羊羹を愛好する人々をはぐくんだといえる。
 戦前、満州地方(現中国北東部)では、日本の羊羹はほとんど小城羊羹であったとの声も聞かれるほど名声はとどろき、赤道を越えてジャワ(現インドネシア)にも及んでいた。村岡総本舗に二十数年前、現代中国有数の書家でラストエンペラー溥儀(ふぎ)の弟、愛新覚羅溥傑氏が羊羹を求めて来店し、揮毫(きごう)を残している。
 東アジアに及んだ戦前の小城の羊羹業の拡大は二度の変革期が推定される。第一次大戦を契機とした機械化の波が業界にも押し寄せ、大正十一(一九二二)年には小城の地に蒸気応用、電動機械利用の工場が出現。手作りから機械の応用に転換し、一日数百本から数千本以上の製造が可能となった。

世界一の携帯保存食

 加えて一九三〇年、ニューヨークでアルミはくの食品包装利用が開始され、これに工夫を加えた羊羹包装が東京で始まった。缶詰の高価・過重である点を改良したこのラミネート紙(ガゼット)はその後も改良され、世界一すぐれた携帯保存食といわれる羊羹の現在の形に。
 小城はこの近代式羊羹と竹の皮、経木で包んだ昔ながらの羊羹を併せ持つことにより、「羊羹のふるさと」ともいわれている。
 佐賀県立佐賀城本丸歴史館の展示で、小城の羊羹業が紹介されるほどのブランドとなった今、こうした期待に応え、日本一消費地の継続へさらなる努力が求められている。

 

 

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